日蓮宗とは

日蓮聖人の教え

日蓮聖人と日蓮宗

鎌倉時代に生きた日蓮聖人(にちれんしょうにん)は、お釈迦さまが悟った真理は、法華経(ほけきょう・妙法蓮華経)という経典に書かれている、と知りました。 法華経には、お釈迦さまは遠い昔から未来まで生きていらっしゃる。そして永遠にあらゆるものを救いつづける、と書かれています。  日蓮聖人は、人々を救う法華経をひろめる役目が自分にあると自覚し、法華経を心に受け入れ、口に唱え(南無妙法蓮華経)、実行すると誓い、法華経の行者(ほけきょうのぎょうじゃ)として生き通しました。 その流れを正しく汲むのが、日蓮宗です。

日蓮宗

日蓮聖人の教え

Epispde 1. →たくさんの仏教宗派がありながら、なぜ世は乱れる?

日蓮宗の宗祖、日蓮聖人は、貞応(じょうおう)元年(1222年)2月16日に現在の千葉県鴨川市に、漁師の子として生まれました。

日蓮聖人が生きた鎌倉時代は、飢饉や流行り病、天災などが相次ぎ、また幕府と朝廷の権力争いが続く混乱した時代でした。そんな中、幕府や朝廷の後ろ盾を得て多くの仏教宗派が教えを広めます。ところが、世の中の混乱は一向に静まりません。為政者は加持祈祷に頼りっきりで民衆の生活を改善する努力を放棄し、一方の寺院は自らの特権にしがみつくばかり。もはや人々は現世の救いをあきらめ、来世に望みを託すしかないというありさまでした。

そんな現状に、この地域の名刹・清澄寺で出家し、勉学に励んでいた若き日の日蓮聖人は疑問を持つようになります。「人を幸せにするはずの仏教宗派がたくさん咲き乱れているのに、なぜ世の中は更に乱れるばかりなのであろうか。そもそも一人のお釈迦さまの教えであるはずの仏法に、なぜこれほど多くの宗派が存在し、その優劣を争っているのだろうか――」。そして、本当に人々を救うことのできる、真の仏法を求める旅がここから始まるのです。

このとき、世の安穏を実現する教えを捜し求めていた日蓮聖人は、仏法の全てを知り尽くしたいという使命感にあふれていました。そのことは「私を『日本第一の智者』となし給え」と21日間、不眠不休で寺の本尊・虚空蔵菩薩に願を立てたというエピソードからも伺えます。

Episode 2. →徹底的な勉学の末に法華経にたどり着きました。

日蓮聖人は、32歳までの10数年をかけ、比叡山をはじめ、薬師寺・高野山・仁和寺などで仏教の教えを徹底的に学びました。 その結果、来世ではなく現世での在り方を問い、"今をイキイキと生きること"が説かれた「法華経」こそ、混迷した世の中を正し、人々を救う「お釈迦さまの真の教え」である、と確信を得たのです。

建長5年(1253年)4月28日に旭ヶ森(現在の千葉県鴨川市・清澄寺)で、日蓮聖人は初めて「法華経を心の拠り所にします」という意のお題目「南無妙法蓮華経」を唱えます。そしてこのときから、自らを新たに「日蓮」と名乗るようになったのです。法華経のように"太陽の如く明らかで、蓮華の如く清らかでありたい"との願いを込めた「日蓮」という名は、法華経の行者として生き抜く決意のあらわれだったのです。これが日蓮宗のはじまり、立教開宗の日です。

Episode 3. →自らの幸せを望むなら、まず社会の安穏を祈るべし!

「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕」。
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし〔自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ〕」。

立教開宗を宣言した日蓮聖人は、当時幕府が置かれていた政治の中心地・鎌倉の町辻に立ち、道行く人々に、法華経を説き続けました。

しかし、「法華経こそが、お釈迦さまの真の教えである」という日蓮聖人の主張は、その当時の仏教各宗派や、その既成仏教を支援していた幕府や朝廷の反感をも買うこととなりました。それでもなお、日蓮聖人は、混迷する国家の救済を目指した渾身の書『立正安国論』を当時の権力者・北条時頼に建白し、法華経を根本とした国づくりをするよう、命をかけて諌めたのです。
『立正安国論』のなかで日蓮聖人は、そもそも世が乱れる根本的な原因は、来世での救いしか求めない民衆の誤った信仰や、加持祈祷(かじきとう)のみに頼る幕府の間違った政策にあると断言。幕府が行いを改めなければ、国内は更に乱れ、外国からの攻撃も受けるにいたるだろうと予言しました。

自らの幸せを願うのであれば、正しい教えのもと、社会全体の幸せを願わなくてはならないと訴えたのが「立正安国」の思想なのです。

Episode 4. →度重なる法難で、より研ぎすまされた思想と法華経への信仰

しかし主張が受け入れられることはなく、日蓮聖人は鎌倉松葉谷草庵焼き討ち、伊豆流罪、小松原の襲撃、龍ノ口での斬首の危機など様々な迫害を受けることになります。

一方で「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることなく法華経を広める日蓮聖人の姿に、人々は心を動かされ、この頃から次第に教えに帰依する人の輪が大きく広がり始めました。

すると今度は、その力を恐れた幕府が日蓮聖人を、佐渡へと流罪にしてしまうのです。

果てるともなく続く逆境の毎日――。しかし、日蓮聖人はひたすら思索を続け、自らの思想を更に研ぎ澄ませていきます。

そうして、ついに日蓮聖人の宗教思想の結晶ともいえる『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著しました。

お釈迦さまの智慧と慈悲を5文字に宿らせた「妙法蓮華経」。その5文字に心から帰依することを表す「南無妙法蓮華経」というお題目を受け入れ、唱えることで、お釈迦さまの功徳を全て譲り受け、誰もが仏となることができる、そう説かれたのです。

Episode 5. →全ては正しい教えで、良い社会を造るために

『立正安国論』の中で予言された外国からの攻撃が、蒙古襲来というかたちで現実のものとなると、幕府は日蓮聖人の流罪を解き、鎌倉に呼び戻します。しかし、幕府が、『立正安国論』の真意を汲み取ろうとしていないことを悟ると、日蓮聖人は鎌倉を離れ、山梨にある身延山(現在の身延山久遠寺)へと身を置きます。ここで、国の将来を見据え、法華経を受け継ぎ「南無妙法蓮華経」=お題目を広める仏弟子の教育・育成に力を注ぎました。後に、この身延山で学んだ弟子や信徒らによって、教えは全国へと広がることとなったのです。

法華経の行者として激しく生き続けてきた日蓮聖人ですが、その人生ゆえに、満足に親孝行ができなかったことを振り返ることもありました。遠く安房の国が望める身延山の山頂に登っては、亡くなられた両親への追慕に涙したと伝えられます。「その恩徳を思えば、父母の恩・国主の恩・一切衆生(いっさいしゅじょう)の恩なり。その中、悲母(ひも)の大恩ことに報じがたし」。受けた恩を思うならば、人間に生まれて法華経に出会わせてくれた父母の恩、国の恩、全ての人びとの恩にむくいていかなければならない。なかでも母よりうけた大きな恩は、とてもむくいることができないほど重い――。母に対する思慕の深さが伺えます。不屈の精神の持ち主でありながら、こうした温もりのある一面も持ち合わせていた日蓮聖人。それが、多くの人の心を惹きつけてやまない魅力なのかもしれません。

その後も9年間に渡り弟子の育成を続けた日蓮聖人は、長年の厳しい生活で崩した身体を癒すため常陸の国(現在の茨城県)の湯治場へ向かいます。しかし途中、池上宗仲邸(現在の東京都・池上本門寺)で容態が悪化。ついには立ち上がることもできなくなりました。それでも最後の力を振り絞り、弟子たちに『立正安国論』の講義をしたといいます。

10月13日の朝、日蓮聖人は弱冠13歳の経一丸(きょういちまろ、後の日像上人)を枕元に呼び京都での布教を託すと、多くの弟子たちに見守られながら、61歳の生涯を閉じたのです。

Episode 6. →世界に広がる日蓮聖人の教え

ご入滅後も日蓮聖人が一生涯を捧げた法華経の信仰は、身延山久遠寺(くおんじ)を総本山として、弟子達の手で更に大きく花開いてゆきます。日蓮聖人の遺志を受け継いだ弟子達が、全国各地でお題目の布教に努めたのです。

そして日蓮聖人の悲願でもあった、京都での布教に向かった日像上人は、三度の追放と赦免という法難を受けながらも布教に尽力し、ついに建武元年(1334年)後醍醐天皇より、妙顕寺(京都市上京区)を勅願寺(ちょくがんじ)にするという綸旨(りんじ)を賜ります。このことにより、日蓮聖人の教えは、揺るぎない地位を獲得することになったのです。

室町時代には、京都の民衆の実に7割以上が、日蓮聖人の教えを信仰するようになりました。そして京都での布教の成功をきっかけに、日蓮宗は日本全国へと広がっていきます。

現在では、日蓮宗は日本全国に5000の寺院を有し、信徒は300万人を数えます。またその教えは、世界中へと広がっています。

「民衆の苦悩を取り除き、より良い社会を作りたい」という一心からはじまった日蓮聖人の教えは、数百年の時を越えて、私たち現代人の心に深く生きづいています。